【Christmas kiss】
約束はしなかった。どうせ、二十四日のうちに会えるはずがない。
田辺から十二月二十四日の予定を聞かれたのは、一か月前と一週間前だ。どちらもスマホのメッセージだった。
一か月前はわからないと答え、一週間前はクリスマスだと自覚した上で、仕事だと返した。例年、大輔はクリスマス出勤&残業組だ。子どもがいたり、カノジョがいたりする署員たちの、この日にかける熱量は半端がない。
西島でさえも、なじみのスナックに顔を出すからと言って残業を切り上げた。
気が付けば部署には大輔しかおらず、明かりもデスクのある一区画だけに灯っている。それでも、年末に向けて処理すべき書類は山のように積まれていた。どうせ、終わるわけじゃない。
そう思ったが、いまから田辺に連絡をして『会えるけど?』なんてことは恥ずかしくて言えない。
まるで、デートをしたいみたいだし、会えばセックスすることになるわけで、しなくてもいいと言ったって、クリスマスにセックスしないカップルはいない。もしかしたら、いるかもしれないけど、田辺はしたがるだろう。
大輔だって、したい。
だから、言えない。
デスクの上に置いたスマホをぼんやり眺めていると、暖房の消えた室内がしんしんと冷えていくのがわかる。
ため息をつきそうになったところでスマホが震えた。定期的に妙な名前をつけている番号からだ。いまは『京田辺水産』と出る。
マル暴の刑事と水産会社。人に見られたら、実家へのお歳暮を頼んだのだと答えることにしていた。みんな口を揃えて「蟹かー、蟹、いいよなー。うちにも送っていいぞ」と言う。
大輔が電話に出ると、向こうからにぎやかな音楽が聞こえてくる。街中にいるのか、お姉ちゃんのいる店の外か、それとも、もっと小洒落たパーティーか。
「もしもし」
「俺だけど」
胸へとすっと染み込む声がする。田辺だ。
「息子はいません」
「さびしがりの息子さんがいると思うんですけどね」
オレオレ詐欺じゃないと笑った田辺は陽気だった。
「仕事中にごめん。でも、この時間はもう明かりも消えてる頃だろ?」
「見たように言うな」
「去年もそうだった」
言われてみれば、そんな気がした。去年は会わなかった。クリスマス当日に振られた同僚がいて、仲間で『慰めクリスマス会』をしてひどい目にあったのだ。
「まだ仕事?」
「おまえもそうなんだろ。にぎやかだ」
「時間をつぶしてただけだ。……俺は、今日中に会えなくてもいいよ。でも、なんとなく、言いたくて。……メリークリスマス」
「ば、っか……じゃねぇの……」
思わず前のめりになってしまうほど恥ずかしい。身体が熱を帯びて、背筋がぶるぶると震える。
「大輔さん。何時でもいいから、連絡して」
柔らかくて優しい声がした。
「おまえ、なに言って……」
こういうときの田辺はたちが悪い。とんでもないことを言い出す。
「ホテル、取ってあるから。……待ってる」
「あぁ? なに言って! っていうか、それならそれで……っ」
イスを蹴って立ち上がり、大輔は口元を押さえた。
「クリスマスに会いたいなら、会いたいって言えよ……。俺、そういうの、わからない」
だから、嫁のことも散々がっかりさせたのだ。あんな後悔はもうしたくない。
言ってくれたらするのに、なんて、言われて従うことにはなにの意味もなかったと、いまさら気づいてうなだれる。
「……もう終わったから。すぐに行く。どこのホテル? おまえもすぐに来れる? って言うか、な! ……ええっと、なんか、したいこととかある? いや、その、おまえは女じゃないし、ツリーとか見たくないと思うけど。そういうのも悪くないし、見たいなら一緒に……」
「じゃあ、待ち合わせしてもいいかな」
電話の向こうで、田辺が笑う。その声がやけに甘く響いて、あんまり面倒なことは言われたくないと思う。
会ったらすぐに抱き合いたい。人目を気にせずにキスがしたい。
「ホテルのそばに、イルミネーションをやってるところがあるから。それを見て、なにか軽く食べて……、エッチしよう」
「……食べんの? まだ、食べてないのか」
「俺は食べたけど、大輔さんは残業だっただろ?」
「……まぁ、うん」
「ケーキは用意してあるから、それでいいなら……。大輔さん、俺は早くふたりきりになりたい」
そんな甘いことをどんな顔して言っているのだろう。
そばに女がいたら、きっとすぐに恋に落ちてしまうはずだ。そう思うと胃の奥が重くなる。
待ち合わせの場所を聞いた大輔は、すぐに帰り支度を済ませた。表通りへ出てタクシーを拾う。
待ち合わせの場所の公園そばで降りると、あたりは一面の青い光で包まれていた。時間が遅いからか、人の気配もなく静まり返っている。
円形の広場へ入っていくと、ライトアップされた木が一本見えた。もみの木ではなかったが、大きく広げた枝に垂れ下げられたライン状の電飾が幻想的だ。
あちこちのベンチにカップルがいて、どうやら知る人ぞ知るスポットらしい。木の周りをぐるっと回ってみたが、田辺はまだ来ていないようで、男ひとりなのは大輔だけだ。
ベンチも空いていないから、仕方なく人目を避けて立った。
田辺が同じように木の周りを回ってくれたら、すぐにわかる。
それよりも、連絡を入れておこうとスマホを取り出す。メッセージを打つよりも早く、広場へ駆け込んでくる男の姿が見えた。
丈の長いコートの裾を乱して、いったいどこから走ってきたのか。公園のすぐそばでタクシーを降りたなら、走る必要もない距離なのに。
田辺はすぐに気づいて駆け寄ってくる。スーツと眼鏡は、仕事着のようなものだ。
「おまえ、仕事だったんじゃ……」
大輔が言うと、乱れた髪を両手でかきあげた。
「違うから、大丈夫。……待った?」
「いま来たところ」
「本当に? なかなかタクシーが見つからなくて」
田辺の手が、大輔のコートの襟を掴んだ。キスの雰囲気だけを漂わせて、ふたりの視線が絡み合う。
「ルームサービスも頼めるから」
田辺に促され、大輔はイルミネーションを振り返る。
「おまえ、これが見たかったんじゃねぇのかよ」
「……待ち合わせがしたかっただけ」
「ちょっとは見ろよ」
「さっき、眺めてる大輔さんとセットで見たから」
「おまえ、本当に走ったんだろうな。実は隠れてたんじゃないだろうな」
疑わないでくれと笑った田辺の足取りは軽い。
「クリスマスがこんなに都合よく思えたことはないよ、俺」
ホテルのロビーを抜けて、エレベーターを呼びながら振り向いた男は、いつものスマートさだ。どんな女でも選べるのに、大輔がいいと言う奇特な男。
「なんで?」
「大輔さんと会う口実になるから」
エレベーターの扉が閉まったのと同時に、耳たぶをこねられた。ぶるっと震えると、
「敏感だな」
すでにいやらしく濡れた声で笑われる。
部屋にはきっと、シャンパンもケーキも用意されているに違いない。でも、それに手を付けるのは、ひとしきり抱き合った後だ。
田辺に先を譲られて、大輔は柔らかな絨毯のエレベーターホールへ一歩を踏み出した。すべてが自分の意志だった。
【終わり】