くちづけ

午後三時。
休日の昼下がり。
離れのソファで書類を片手に振り向く。
「周平」
と、名前を呼びながら肩に手を置いた佐和紀が、頬をすり合わせるように顔を近づけてくる。
「後どれぐらい? 夕飯の前に、ドライブにでも行かねぇ?」
ふと触れたくちびるはあっけなく離れていく。
眼鏡を掛け直した佐和紀は、ガラス窓のそばだ。
キスをされたと気がつくまでに五秒はかかった。子供騙しもいいところだ。
かすめただけで、色っぽい音さえ鳴らさない。
それでも満足そうな顔をした佐和紀は、照れ隠しに窓の外を覗いている。
「いまのは、何だ」
書類へ視線を戻して、周平は笑いを噛み殺す。
「何って……」
窓辺に立つ和服の白い裾が目に入った。
キスだと答えられない声を喉に詰まらせ、拗ねた佐和紀の素足が床をこする。骨ばったくるぶしが、薄闇の中に浮かぶのを思い出す。
強く掴んで脚を開かせ、痛いほどにくるぶしの骨に歯を立てれば、周平を飲みこんだ内壁がきつく締まる。羞恥で震えた肌はいっそうの熱を帯び、叫び出したいぐらいに募る狂おしさに胸奥を責められる。
目で追う文字が滑って頭に入らない。
書類をソファに残して、窓辺へ向かった。
「いまどき、中学生でも、もっとましなキスをするぞ」
逃げない佐和紀を窓へ追い詰める。
手のひらを押し当てたガラスは春日で暖かい。
「知るか」
両手の中に囲われた佐和紀は、一瞬だけ睨んで視線を逸らす。それを追いかけ、身を寄せた。片肘をガラスにつける。
互いの息づかいが肌にかかるほど顔を近づけた。
あんなものはキスじゃない。
そう思うのに、書類さえ読めなくなるほど気持ちが乱れる。 子供っぽくするなら、せめて音ぐらい鳴らせばいい。頬にチュッとしてくれれば、キスだと思うだけで済む。
誘ってるのかと言いかけて周平は黙った。
壁と周平に挟まれた佐和紀は、腕組みをしたままだ。身じろぎひとつしない。
整った鼻筋と長いまつ毛が冷ややかで、いつも通りの美貌だった。どこから見ても男なのに、不機嫌な表情がどこか色っぽく匂い立つ。
そっと頬を近づけ、肌にくちびるをすべらせて離れた。
眉をひそめた佐和紀の瞳が戸惑いで揺れる。
「少しは、覚えたら……どうなんだ」
ひとりごとのように囁き、周平は眼鏡をはずした。指に引っかけたままガラスへ腕を戻し、何も言おうとしない佐和紀を覗き込む。そのまま、佐和紀のくちびるに自分のくちびるを押し付けた。
「邪魔をするなら、ちゃんと邪魔をしてくれ。中途半端じゃ、つらいだけだ」
胸の奥がまだ、ざわめいている。
不意打ちのキスに、あんな威力があるとは思いもしなかった。
「そんな、つもりじゃ……」
目を閉じるべきかどうか迷っている佐和紀は、伏せたまつ毛をしばたたかせる。
「ごめん」
「いや、そういうことじゃなくて、な……」
邪魔をされたと言いたいわけじゃない。
だけど、佐和紀にはそう聞こえたのだろう。
「佐和紀」
名前を呼ぶ他に、何も言えなくて困る。
胸の奥に妙なテンションがかかり、感情の歯車がガリガリと異常な音を立てた。キスにもならないようなキスで煽って置きながら、その意味さえ自覚していない佐和紀の幼稚さに、どうしてやろうかと意地の悪い仕返しを考える。同時に、それとは別の想いで周平の胸は焦げる。
顔を近づけると、佐和紀は息を止めた。腕組みをしているのは、身体が緊張しているからだと今さら気がつく。
腕の中に閉じ込められ、ガチガチになってキスを待っている。結婚して一年と少し。年齢に似合わない幼さを、笑い飛ばすことができなかった。
一瞬だけ逃げる素振りを見せた佐和紀が、次の瞬間には、かすかにくちびるを突きだそうとした。触れ合う前に引いたのは、周平の方だ。
息を吐くと、佐和紀が目に見えて肩を揺らす。
仕事の最中にキスされたぐらいで邪魔になるような生活はしていない。キスされても、下半身をまさぐられても、頭の中は正常に動く。……はずだった。
「何に、謝ってるんだ」
「邪魔、した」
「なってない。まぁ、手につかなくは、なったけどな。それは」
言いかけてやめる。
話すたびに、互いの息がくちびるへ当たり、意識がそこへばかり向かってしまう。
子供騙しのキスだ。触れるか触れないか、ただそれだけのいたずらに、胸の奥が掻きむしられる。
だから。
あれは、やっぱりキスに違いない。
顔を傾け、くちびるを押し当てた。ゆっくり離すと、佐和紀のくちびるがつられたように追いかけてくる。
「……」
眼鏡のレンズ越しに、薄く開いた瞳が見つめてくる。
「キスの仕方ぐらい、教えたはずだ」
言いながら、佐和紀の眼鏡を額へと押し上げる。そのまま、頬を手のひらで撫で、顔を上げさせながら指でくちびるをなぞる。
佐和紀の返事を待ちきれずに、周平はもう一度くちびるを重ねた。ついばみ、舌を這わせ、吐息を吸い上げる。
いつまでも胸の前で組まれたままの手を掴み、シャツの襟もとに引き寄せた。佐和紀の手がするりとうなじに添い、周平はかすかに身を震わせる。
目元がチカチカするような感覚に熱い息を吐き出す。
くちびるを重ねるたび、チュッと音が鳴る。
「あっ……んっ」
佐和紀の甘い息遣いを追いかけて、くちびるの間に舌をねじ込む。ガラスに両ひじをついたまま、胸を合わせるように身を寄せた。
「しゅうへっ……、しごとっ……」
「無茶を言うな。誰が誘ったと思ってるんだ」
「……俺が、誘ったのは……ドライブで」
「黙ってろ」
「桜が……咲いたから」
ぐっと胸を押し返されたが、かまわずにキスを続ける。
「いつ、時間が、できるか……、だから」
佐和紀もかまわずに話し続けた。
「一緒に、見に……、んっ」
「花見よりもイイコトしてやるよ」
下半身を押し付けると、佐和紀はぎゅっと目を閉じた。
硬い勃起の感触に、ぶるっと身震いしてから開いた瞳は、じんわりと濡れ、嫌悪じゃないことを物語っている。
「雨が来たら、終わる……」
そう言うくせに、佐和紀の瞳はもう夜の行為を思い出していた。
「晩飯をあきらめろ。たまには、国道沿いのホテルで遊ぶのも悪くない」
「……悪いだろ」
「高級ホテルよりも設備は整ってる」
「桜を見ようって言ってんだけど」
あきれた顔でくちびるを拭う。その手を掴んで、手首に口づけた。
「桜を見てからでいい」
「仕事は……」
「おまえと過ごす以上に大事な仕事が俺にあるか?」
「こわいよ、おまえ」
これみよがしにため息をついた佐和紀が、首筋を引き寄せながら、くちびるの端にちゅっとキスをしてくる。
「どういう意味だ」
「んー。さぁね」
肩をすくめて笑い、佐和紀は眼鏡を定位置に戻す。
こわいのはおまえの方だと、周平は胸の内でぼやいた。
子供騙しのキスしかできないくせに、佐和紀は恐ろしいほど的確に周平を煽る。
それとも、佐和紀のキスがすべからく子供騙しだと、思い込でいるだけなのか。
後者だと気づいていても、認めたくなかった。
眼鏡を顔に戻し、腕の囲いからするりと逃げた佐和紀を目で追う。
「ラブホテルに行きたいなら、ストレートに誘えよ」
背中に声をかけると、飛び上がって振り向く。
「はぁ? それはおまえが言いだしたんだろ。俺じゃない!」
「あんなジャレつきで誘ってきたんだから、おまえが言いだしたようなもんだろ」
「……信じらんねぇ」
ポカンと口を開いた顔が、見る見る間にしかめっ面に変わる。
「なんだよ。おちおちキスもできねぇのかよ。はー、イヤんなんるな。……周平?」
不安そうな佐和紀の声に、ソファの書類を手にした周平は肩をすくめた。
「片づけるだけだ」
「あ……」
まずったと言わんばかりの表情になった佐和紀が顔を背ける。書類を片付け、
「邪魔が入る前に出かけるぞ」
と、声を掛け直す。
「なぁ、フェラーリでラブホに入んの? 悪目立ちじゃねぇ?」
「気になるのは車だけか?」
笑いながら、ジャケットを手に取る。
「ラブホで、セーラー服でも借りるか」
軽口を叩くと、廊下へ出た佐和紀に思いっきり睨まれた。
「誰が着るんだよ。おまえかよ」
「ヤクザと援交する高校生って設定で」
「……ほんと、仕事し過ぎじゃねえの?」
「そういう仕事じゃないけどな」
「知らねえよ。バカ」
怒った佐和紀のうなじを見ながら、周平は首を傾げた。
佐和紀が、キスの仕方を知らないはずはない。数えきれないほどくちびるを重ね、互いの性感帯も知っている。
なのに、キスですらないと周平が思うのは、もっともっと激しい何かで迫って欲しいと思うせいだ。
わがままに、身勝手に、強い欲望を持って求めて欲しい。
「着ないからな」
車に乗り込む間際に、佐和紀が念を押してくる。
「そのとき、考えろよ」
周平は笑いながら答えた。屋敷の車寄せにも、桜は咲いていた。

【終わり】