小夜

 
 開いた本の内容が、まるで入って来ない。
 手にしたウィスキーグラスの氷を鳴らし、ふっと視線をあげる。さほど難しい本を読んでいるわけではない。佐和紀に薦めた小説の文庫だ。リビングのテーブルの上に置かれていたのを、手に取ってみただけ。
 ペルシア絨毯の描写を脳裏でなぞり、ふたりで見上げた祇園祭の山鉾を思い出す。そっと触れた佐和紀の指先の、ほんのわずかな震えを、周平は昨日のことのように思い出せた。
 深夜までかかるはずの用事が先方の予定で切り上げられ、「たまにはごゆっくり」と、支倉はしたり顔で言った。佐和紀が三井と出かけたことを知っていてのことだ。
 それでも「車を回しますか」と尋ねられた。断ったのは、今夜はユウキと能見も一緒だと聞いていたからだ。ふたりは佐和紀の友人になったが、周平とは複雑な間柄が続いている。いきなり混じれば、楽しい雰囲気に水を差すことになるだろう。
 迎えに行っても同じだ。邪魔はしたくない。
 それぞれのテリトリーとそれぞれの時間。不可侵を約束したわけではないが暗黙のルールだと思っている。
 いきなり現れたことに驚いたり拗ねたりする佐和紀を、口八丁手八丁で言いくるめてかっさらうのも悪くはないけれど。なんとなく、そんな時期は過ぎてしまった。
 ウィスキーの香りを嗅ぎながら、部屋に漂う白檀の残り香を感じる。佐和紀の残像はあちらこちらにあって、目を閉じなくても思い出せる。
 ワゴンの前で水割りを作るときの立ち姿。
 ソファで転がって本を読むときの、足指の動き。
 風呂に行くと言って立ち上がったのに、ドアを開けながら拗ねたように呼びかけてくるときの眼差し。
 着物の袖はいつも視界の端で揺れ、そこにあるのが当然になっていた。
 周平はもう一度、手元の文庫本へ視線を戻した。
 文章を目でなぞり、頭の中で反芻する。
 それでも佐和紀を思い出してしまう。
 あきらめて本を閉じ、テーブルの上に戻した。
 ウィスキーを一口飲んで、軽い酔いに身を任せて目を閉じる。
 いまごろ、なにをしているだろうか。
 悪い遊びもいくつか覚え、周平に対する秘密も増えた。三井が報告してくるのは四割がいいところだろう。
 飲み屋のお姉ちゃんをからかってみたり、おっぱいパブで女の子の胸を揉んでみたり。
 シャレたバーでは、金を余らせた男に口説かれてみたり。
 やりたい放題に遊び歩いて家に戻ると、殊勝な顔つきで、面白いことなんてなにもないと口にする。
 楽しんできたことを黙っていたいのか、それとも罪悪感があるのか。とことん追い込んで問いただしてやりたいと思う裏側で、秘密を隠す佐和紀の目元の涼しさにほだされて、わかりやすい嘘についつい騙されてしまうのだ。
 愚かな男であることが、これほどまでに甘美な快感だとは知らなかった。嘘とわかっていても、騙されていたくなる。
 ひとりで夜を過ごすことが多かったことへの仕返しも、初めのうちはあったらしい。「ごめんね」と言いながら、どこか意地悪く目を細めていたが、それもまた、最近は見なくなった仕草だ。
 よほど悪いことを覚えたな、と考えながら、周平は離れを出た。母屋に渡って、台所へ行く。
 扉を開けると、今夜はまだ老家政婦がいた。
「あら、まぁ。珍しいこと。御新造さんとお出かけじゃないんですか」
 時計を見ると、時刻は十一時を過ぎたところだった。
「置いて行かれたんだ」
 ふざけて言ったが、
「もっと心配するかと思いましたけどねぇ」
 仕事が早く切り上がっただけだと察した答えが返ってくる。
「もっと束縛すると思ったんだろう? なにか、つまみが欲しいんだけど」
「それなら、ちょうどいいものが」
 そう言って取り出されたのは、小鉢に入った浅漬けだ。細く切ったにんじんと乱切りのキュウリが山盛りになっている。
「あなたがお腹をすかせたときに出して欲しいって、作ってからお出かけになったんですよ」
 年老いた顔に、少女のような笑みが浮かぶ。
「束縛する理由なんてないでしょう。あの子が相手なら」
「俺には過ぎた相手だろう」
「そう言われると、頷きたくなるから不思議なもので……。まぁ、あんたも苦労をしたクチだから。なにもいいませんよ、私は」
 大滝組に入ったばかりの頃は、面と向かって説教された相手だ。周平が真面目に聞くことはなかったが、家政婦が口を閉じることもなかった。
「迎えに行かないなんて、寛容だと思いますよ」
 小さなトレイに、浅漬けの器と箸を置いて振り向く。
「そう思われたいんだよ。俺は小さい男だ」 
「まぁ、まぁ。そんな言葉を、あんたから聞くなんてねぇ。さびしがっているように見えたと、言っておきますよ」
 けして『さびしがっていた』とは言わず。
 シワの刻まれた顔を朗らかにゆるませた家政婦が見上げてくる。トレイを受け取り、周平は肩をすくめた。家政婦が言う。
「散々、悪いことをしてきたあんただ。御新造さんの手綱の引き方は心得てるだろうね」
「引かれてるのは俺の方だよ。それに、あいつが行き過ぎることはない。さびしがりな性質だから、外が楽しければ楽しいほど、家が恋しくなる」
「……ごちそうさまでした」
 笑って追い払われ、周平は離れへと戻った。
 佐和紀は外へ出て、『小さな冒険』をしてくる。
 周りをからかい、からかわれ、傷つけて、傷つけられて。恋愛に関しては真似ごともできないだろう。
 たとえ、だれかと抱き合っても、女のからだに触れてみても。
 そこにあるのは好奇心だけだから、得るものは淡い達成感と薄暗い後悔だ。そんなことを微塵も知らずに『大人』になれたらどれほどいいだろうか。
 でも、これからの佐和紀を思えば、恋人にとっては都合の悪いことをしているとわかっていて許すしかない。
 いままでまともな恋をしなかった佐和紀は、あれこれと恋に似たものをかき集め、その都度、周平との間にあるものの真偽を確かめているのだ。
 もしもそれが、本当の浮気にまで行ったら、三井や岡村が止めるだろう。取り返しのつかないことは存在する。それによって佐和紀が傷つくことを、あの二人は見過ごさない。
 特に岡村は、取り返しのつかない後悔はさせないはずだ。自分が相手だとしても。
 居間のソファに戻って、テーブルの上の携帯電話を手に取った。
 まだ、なにの連絡も入らないそれを、元の場所に置く。
 だれかと話したいような、やり取りをしたいような、そんな気持ちになったが、ふたたび手を伸ばすことはしなかった。
 皿にぎっしりと詰まった浅漬けが目に入ったからだ。
 ひっそりと寄り添い、腕にしがみついてくるときの佐和紀を思い出す。右腕がじんわりと重くなり、周平は目を伏せた。
 愛はときどき、胸の奥に突き刺さる。
 一緒にいてもいなくても、『ふたり』という事実に身の内が震えるからだ。
 外で友人たちと騒げば、時間を忘れるほどに楽しいだろう。
 ずっとこの瞬間が続けばいいと思っても、そうはいかない。楽しい時間は必ず終わり、みんなそれぞれの居場所に戻る。
 そのとき、佐和紀が目指すのは、周平のいる場所だ。
 楽しかった分だけ空虚な気分になって、なんとなく湧き起こるさびしさの中で、変わらないものを『ふたりの家庭』の中に見るだろう。
 まるで思春期の子どものような佐和紀を、周平は黙って抱き寄せるだけだ。言いたければ聞くし、言いたくないならなにも聞かない。それでも、キスをして抱き合えば、佐和紀の鬱屈が晴れると知っているからだ。
 それは周平も同じだった。どんなに嫌な思いをさせられて戻ってきても、すべては佐和紀が癒してくれる。
 目を伏せたまま、周平はしばらく動かなかった。浅漬けに手が付けられない。
 自分と同じ気持ちにさせてやれると思う根拠のない自信と、それを微塵の疑いもなく信じられる全能感。
 初めて手に入れた愛の深さと甘さに、もう少しだけ酔っていたくて、ソファに身を沈め、幸福に身を任せた。